病歴・就労状況等申立書(障害年金請求の必要書類)では、自分自身のことについて悪く表現することにならざるをえません。

もしかしたら、自分の思っている自分自身の姿とは全く異なるものかもしれません。そのことに、怒りを覚える気持ちは当然だと思います。

より広い意味で表現するなら、怒りとは「自分の思い通りにならないこと」に対するものだと思います。

私の思い通りの姿ではない

全てはそこなのではないかと思うのです。自分のしてほしいことをしてくれない。自分の思いが伝わらない。

間違ったことをしている人間に対して、(正しい)自分の思いが伝わらずにその間違いが正されないことに対する怒り。

怒り=スキルがない=恥ずかしい

思い通りにならないことに怒りを感じる。それ自体は正しいけれども、つまりはその「思い通りにするためのスキルを持っていない」という厳然たる事実があるわけです。スキルが劣っていることについて、恥ずかしくは思わないのでしょうかね?。

伝えるため伝わるため、どう表現すればいいのか? どんな表現ができるのか? Aさんに伝わる姿形が、Bさんには通じないなら別の姿形で表すしかないですよね。日々、その取り組みなのだと思うのです。

伝えるためという根本の思いがあると、もしうまくいかない時には自分のスキルの無さを痛感させられるわけで、そのことをあっぴろげに知らしめたいですかね?。そんな「恥ずかしさ」は感じますね。

伝えたい思いに寄り添いたい

怒りとは、思いを伝えたいのだと捉えています。伝えるための“力”はでかいです。だったら、何を伝えたいのかを一緒に見つけたいと思うわけです。

古いタイプの人間だと、昔ながらの“常識”を伝えたいと言う強い思いがある場合が多いように感じます。先人の常識を受け継ぐこと自体はアカンことじゃない。だけど、その人の描く“常識”とやらが自分に伝わってほしくないなぁと感じることも多々あるわけでして……。これはもう距離を置くしかないですね。

その“常識”とやらが何なのか、 実は分かってはいるんですよ。それが自分に伝わってほしくないだけなんですね。・・・・・・伝わってほしくない思いを無理やりにでも伝えたいとか思っている(怒り)だとしたら、関わり合いになりたくないですねえ。

それでも、怒りを咎めようとは思わないです。ただ、怒りとして出てきた程のその思いを明確に表現することで「私はそれを必要としない」と伝えようかなと思うのです。

また「滅ぼす」怒りもありますよね。思い通りにならない存在を滅ぼすために怒りのエネルギーをぶつける。本当に滅ぼすべきものもあるかもしれません。その思いは、必ずしも間違いとは思わないし、寄り添える場合もあるかもしれません。・・・・・・とはいえ、法治国家としては絶対に間違いでしょう。

良くないタイプの怒りであっても、伝えたい何かがあり、伝えたい思いがあるとは感じています。と同時に「それにしても・・・・・・」とは思います。だから、無条件に敬遠するのも違うと感じています。

純粋な怒りとは、愚かである

どこまで言っても怒りでしかないそれでは、何の値打ちも感じません。そんなものを持ち続ける姿を私は「愚か」と表現します。

怒りを通して伝えたい何かがあるのなら、それを表現すればいいわけです。そのためにも「怒り」をうまく除去してみせて、表現したいものを生み出してみせるところに値打ちがあり、ただしそれは万人にとは限らないというだけなのですね。

怒りに覆われたままのものを受け取ることに、どのような価値があるのでしょう? 私には分からないです。皮付きのミカンを丸かじりするようなものでしょうか? ましてや、ミカンの皮だけを食べたいですかね? 私は食べたくないです。 まずその「覆ったもの(怒り)」を取り除こうと思うのです。

そしてその「怒りそのものを伝えたい」というのは・・・・・・。結局そこには怒りしかなかった。それではあまりに空っぽですよ。私はそれは要らないです。ほしい人っているのですか?。空っぽなので欲しがりようがないですよね。そんな欲望は愚かです。怒りそのものを伝えるというのは、何を伝えたいのでしょう? ・・・・・・怒りですか? 

あ、空っぽの器がほしいというのはあるかもしれません。 怒りのエネルギーを使いたいために、それが空っぽであることに値打ちはある。だけど、ただ利用されているだけなので・・・・・・。やはり「愚か」と言わざるを得ないです。

障害年金のサポートとは?

ご相談者さまの思いが、まず自分に伝わり、国家機関に伝えること。

怒りそのままでは、国家機関に伝わらない。伝わるかもしれないけど相手にされないでしょう。

そんな怒りでしかなかったものから、伝えたい思いが表現されて、伝わり伝えてくれる。本当に素晴らしい成功体験だなと思っているのです。

この記事は私が書きました